子連れLSE留学記(英国大学院留学)

2020年から子連れでLSEに留学している筆者の記録

57 LSE/MPA2年目・LT振り返り②(PB422)

PB422 Health Communication

こちらもSPPではなくDepartment of Psychological and Behavioural Science提供の科目。もともとpublic分野におけるコミュニケーションを学びたいという漠然とした思いがあり、コロナ禍を受けて健康分野について関心が高まり選択した。

 

トピックはよく言えば広範、悪く言えば雑多で、体系的に何かを学ぶというよりは、いろんな切り口で自分の興味があるものを見つけるという感じ。やはりこのご時世なので、全体的にコロナに関連する話になりがちではあり、オンライン医療の浸透と今後の展望、WHOの役割、アート(音楽)の役割などコロナ禍において具体的にどういったことが行われてきたかゲストスピーカーに話を聞くというのが、全体の半分ぐらいの講義で行われた。

 

印象的だったのは、講義の中でフーコーと言説(ディスクール)について語られたこと。なぜ人々は健康のために必要な行動を敢えてとらないのかという文脈で、例えば、ゲイカップルがAED予防のためにコンドームの着用が必要と分かっていても、あえてコンドームを着用せず結果的にAEDに感染するのはなぜかという話が具体例で挙げられていた。MTに履修したジェンダーの授業でも、フーコーは紹介され、構造主義的なアプローチが繋がったような気がして興味深かった。ここでフーコーに興味を持って、とりあえず日本語の解説書を買ってみたものの1章で挫折して放置しているのは別の話。しかし、社会科学に関わる者として、いずれはフーコーについてきちんと勉強したいなという気になった。

 

私が一番興味を持ったのは、原発災害とパンデミックの比較。パンデミックについて論じる際に、カミュの「ペスト」をベースにどのようなフェーズを経るかというのは、たまたま渡英前に「ペスト」を読んでいたので、こういう切り口で小説を読めるのかと面白かった。

最終評価のエッセイもこのテーマを選択し、日本政府の3.11の原子力災害とコロナにおけるコミュニケーションの相違点について論じた。原子力災害も新型コロナウィルスも一定の科学的リテラシーが必要、確率的にしか語れないといった相似点がある一方で、原子力災害は初動が全てだが感染症対策はいくつかのフェーズがある、3.11の時は専門家が国民に直接語りかけることは少なかった(原子力安全委員会の委員長が一般向けの記者会見を開いたのは事故から1週間以上も経過した後、国民に伝えるのは自分の役割ではないと認識していたと発言)のに対し、新型コロナウィルス対策では政府の専門家(尾身会長)や医師などが積極的に情報発信をしていた等々。

個人的には震災から10年以上経過したこのタイミングで震災の振り返り的に調べ物をしたのがいろいろ勉強になった。あのときは日本にいたし、政府会見などはリアルタイムで見ていたはずだが、ヘルスコミュニケーションという観点で振り返ってみるといろいろと認識できていなかったことも見えてよかった。

完全に蛇足だが、震災の後、政府・国会・民間からそれぞれ3種類の検証報告が発表されていて、それらの比較をし、実際にその後、どのように改善されたのか調べると面白そうだなと思った(というか政府レベルでできているのか、と少し心配になった)。

蛇足ついでに、エッセイの締めで使い、授業の中でも少し話題になったのが、Giorgio Agambenの論文。短い内容だし、非常に興味深いのでぜひ多くの人に読んでもらいたい。この論文を紹介しているこちらの國分功一郎先生の動画も素晴らしいので、参考までにリンクを貼っておく。

國分功一郎「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」ー高校生と大学生のための金曜特別講座 - YouTube

 

この授業で直接学んだことよりも、この授業で提示された概念や視点を使って自分の興味のある分野を調べてエッセイにまとめる、というのも修士号の本来的な勉強な気がしてよかった。

56 LSE/MPA2年目・LT振り返り①(GI415)

GI415 Gender and European Welfare States

 

前期に履修したGI414と同じくGender Institutionが提供する科目で、福祉国家論とジェンダー両方に興味のある私にとっては、ドンピシャな授業だった。授業の流れは先日1週間のスケジュールという形でまとめたのでここでは省略する。

 

扱ったトピックは、フェミニストたちによるEsping Andersen批判(ジェンダーの視点の欠如、male breadwinner modelsなど)、ジェンダーと福祉政策におけるEUの役割(EUの部局再編によりジェンダーLGBTなどのマイノリティー政策のone of themになった)、労働政策とジェンダー、父性政策(父親を育児にどうコミットさせるか)、移民とジェンダーなどなど。

大学院らしいと言えばそうなのだが、講義ではコンセプトや論文を紹介するだけ、セミナーも基本は学生任せ(事前に指名されたファシリテーターが進行する)という感じで授業自体は正直期待外れだった。加えて、LTに大学教員が実施していたストライキに完全に参加する形で全11回の授業のうち3回は完全中止、使う予定だった講義用スライドを提供してくれと頼んでもストライキってそういうことじゃないからと断られる始末で、講師には申し訳ないが教育内容については、不満を感じた。

しかし、それを補ってあまりあったのが、リーディングリストの素晴らしさ。リーディングリストの論文を読むのが楽しみで、しかもいくつかは読んだ後、ちょっと感動するものもあったのは、初めての経験だった。

 

せっかくなので気に入った論文を少し紹介する。

 

Himmelweit, S. & Sigala, M., 2004. Choice and the Relationship between Identities and Behaviour for Mothers with Pre-School Children: Some Implications for Policy from a UK Study. Journal of social policy, 33(3), pp.455–478.

英国での母親の就労と育児に関する意思決定プロセスを明らかにした研究。意思決定には外的制約と内的制約があること、両者は互いに影響を与え合っており固定的なものではないこと、政策的には外的制約を取り除き母親の選択肢を増やすものが一番効果的であること、といってことが書かれている(と私は理解した)。

この論文が気に入っているところは、自分の体験に重なるところがあったからだ。日本で職場復帰し長子を保育園に通わせ始める際、自分自身が幼稚園に通っていてその前は家庭で保育されていたこともあり、こんな年端もいかない子を通わせるなんてと正直若干の葛藤があった(内的制約)。しかし、いざ通わせ始めると集団生活の中でどんどん成長しているさまを日々実感して、通わせてよかったと考えを改めた。私の理解では、この論文の核心は、本人の内的制約に反して何かを強制する政策は結局内的制約(アイデンティティ)を変えることができない、なぜなら人々は内的制約に反する行動を強制されているということで正当化できるからという主張であるが、まさに自分自身、強制されたわけではなく自身の選択として保育園に通わせた結果、当初は葛藤が生じたが、最終的には自身の内的制約が変わったという経験があったので、すごく納得した。

また、別の場面で、男性の育児休業について話をしていたとき、配偶者に育休を取って欲しかったけど、結局、取ってもらえなかった、「いっそ法律で強制にしてくれれば(職場との関係で)取りやすいのに」と言われた、という体験談を聞き、強制にするのは何か違うと思いつつ、当時はうまく言語化できなかったことがこの論文ですっきりした。

 

Lott, Y. & Klenner, C., 2018. Are the ideal worker and ideal parent norms about to change? The acceptance of part-time and parental leave at German workplaces. Community, work & family, 21(5), pp.564–580.

ドイツで国家政策として育児休業取得や時短勤務を勧めているのに、職場での「理想の労働者」規範が変わらないため、例えば、男性の育休取得が形式的なものになっている(育休は取得するけど、その前後では相変わらず長時間労働が求められ、育児に参加できない)ことを明らかにし、その原因として、職場での人手不足など経済的な要因が「理想の労働者」規範の変更を妨げていることを示唆している論文。

まさに日本も全く同じだよなーというのが一つ。それと、このトピックの別の論文ではアメリカの事例で個別企業の取組みには限界がある、国家政策が必要という提言がなされていたけど、国の政策が先か、個別企業(あるいは業界)の取組みが先か、なかなか悩ましい問題だよなというのがもう一つの感想。

個別企業が人手不足を理由に「理想の労働者」規範の変更を拒み、結果的に働きながら子どもを産み育てるのが難しくなり少子化が進行して、人手不足に拍車がかかるというのは「合成の誤謬」とでもいえばいいのだろうか。

 

最後は論文ではないが、リーディングリストにあった2014年のドキュメンタリー映画”Waiting for August”。15歳の少女を中心にルーマニアのある家族を1年弱撮影したもの。ルーマニアでは子どもを置いて親が外国に出稼ぎに行くことが一般的なようで、この家族も母親がイタリアに出稼ぎに行き(父親の描写はない)、その間、兄弟姉妹7人が一時的な孤児状態になる(保護者として同じアパートの別のフロアに祖母がいるが体調が悪いため子どもたちのいる部屋を訪れることができない、またアパートは狭く(1LDK?)祖母が同居できる状態ではない(子どもたちはベッドを共有して使っている))。

その間、15歳の少女は家事や他の兄弟姉妹の世話を一手に引き受け、自分の重要な試験勉強もままならない。彼女が年相応に振舞えるのは、友人たちと過ごす束の間の時間と母親との(通信状態が悪く時間も限られた)電話の間だけ。最後は夏になり母親が帰宅するところで締めくくられているが、ジェンダー的な視点で見ると、家事や他の兄弟姉妹の世話をするのは、女の子だけ(妹は料理を手伝ったりするが男の子は十分大きくてもテレビゲームをしたりテレビを見ているだけで家事を手伝うことはない)というのが印象的だった。また、英国もそうだが、先進国が移民として女性を多く受け入れ、彼女たちにケアワーカー(介護・育児)をさせることで、(先進国の)女性の社会進出が実現しているという構造もなかなか考えさせられる。

 

上にあげたものは私の限られた英語力に基づく理解に加え、触れたときから数か月経った現在の記憶に基づくものなので、一部不正確化もしれない。興味を持った方はぜひ原典にあたっていただきたい。

55 気候と年中行事

冬頃に書こうと思っていて機会を逸していたことをふと思い出したので書くことにする。

 

ヨーロッパの夏は最高だが冬は辛いという話は渡英前からをよく耳にしていた。実際、冬はとにかく寒くて暗くて辛い。10月あたりからどんどん日は短くなり、11月・12月頃には午後4時前後にはすっかり暗くなってくる。日の出も午前8時ごろにようやくという感じで、あまりにも日照時間が短いため、NHSがビタミンDサプリメントで接種することを推奨するぐらいだ。楽しみも少なく11月下旬あたりから、とにかくクリスマスを楽しみに頑張るという感じになる。そのため、日本でも最近流行りだしているアドベントカレンダーというクリスマスまでの日にちを数えるカレンダー(24個窓があり、1日1つ開け中のチョコなどを食べる)が至る所で販売されている。近所のスーパーで売られている中にチョコなどのお菓子が入った安いものから、ちょっといいお店で1日1つ化粧品が出てくるものまで様々だ。そして、面白いことに、実際、クリスマスを超えると少しずつではあるが、日が長くなっていくことを日々実感するし、近所でも花の蕾が出てきたりして、春が近づいてきていることを感じる。そして、2・3月頃にあるパンケーキデーを迎えると、いよいよ春までのカウントダウンが始まる。イースターを迎えるころには、まだまだ寒い日も多くコートの出番もあるが、花も咲き乱れ、すっかり春だ。5月ぐらいから9月ぐらいまでは長い長い夏。朝は6時前から明るく夜は9時ごろまで十分明るい。そのため、普段8時前に寝かしつけをしている我が家では夏場は遮光シートを窓に貼らないと子どもたちは全然寝ないし、朝も6時台にもぞもぞしている。ただ夏と言っても気温はそこまで上がらず、最高気温が20度を切ることもざらだ。冬ほどでもないが夏も常に日差しに恵まれているわけではないので、よく晴れた日はこぞって公園に繰り出して芝生の上に寝っ転がって日光浴を楽しんでいる。湿度が低いのでそんな日でも過ごしやすいが、日差しはかなり強く、日本人の感覚ではそんな好き好んで日向にいなくてもとも思うが、貴重な日光を逃すものかという執念すら感じる。そして、体感だが、1日での最高気温は午後2時ではなくもう少し遅い午後3・4時あたりに来ているイメージ。

 

2年弱生活してみて、特にクリスマス、パンケーキデー、イースターという年中行事と気候がすごく合致しているのが印象的だった。宗教上の理屈を捨ててでもクリスマスを冬至にしたかったのも分かる。日本の場合、グレゴリオ暦を採用した際、年中行事の日付を旧暦からグレゴリオ暦に合わせる形でずらしたので、季節感と年中行事の乖離が生まれている(よく言われる例では、七夕が行われていた旧暦7月7日はグレゴリオ暦8月なのに、グレゴリオ暦7月7日に行うことにした結果、梅雨の時期になってしまった)。中国や韓国も旧暦からグレゴリオ暦に切り替えたが、その際、民間行事は引き続き、旧暦を使うことにしたので、そのような乖離は生じていないと聞いたことがある。

季節感(体感)と年中行事(儀式)が一致していることの重要さを感じて印象的だった。